中野ブロードウェイ「copys888」の奥まった一角、特別なショーケースに、時計とは思えぬ複雑精緻な物体が鎮座していた。パテックフィリップ キャリバー89のレプリカロレックス コピー模型だ。33の複雑機構を内包し、1728個のパーツから成るこの超複雑時計の傑作は、「時計の聖杯」と称される。本物は数億円の価値を持つが、このレプリカ模型は、樹脂と合金でその外観と機構の動きを模倣している。
「店長、キャリバー89の新型ディスプレイモデルが届きました！」アルバイトの佐藤の声は畏敬に満ちていた。彼が慎重に扱うのは、本物の1/4サイズの精巧な模型だ。「ムーンフェイズ、パーペチュアルカレンダー、ミニッツリピーター…主要な複雑機構の動きをモーターで再現！ 文字盤のエナメル風装飾も見事です！」
確かに、その精緻な造形は目を見張る。小さな歯車が連動し、カレンダー表示が変わり、ハンマーがゴングを打つ動作は、本物の神髄を伝えようとしている。キャリバー89のレプリカ模型は、その圧倒的な複雑さと芸術性ゆえに、コレクターやマニアの間で「夢の代替品」として珍重される。しかし、それはあくまで「動く図解」に過ぎない。
「機構の再現性は確かに驚異的だ、佐藤。」私は認めつつ、模型の裏蓋に刻まれた「レプリカ」の小さな文字を指さした。「ただ、本物のキャリバー89の真髄は、この物理的な複雑さだけじゃない。マイスターたちが生涯をかけて磨いた技術の結晶であり、パテックフィリップという家が100年以上かけて築いた『時計芸術への飽くなき挑戦の歴史』そのものだ。」私は模型の動くテンプを見つめた。「この模型の動きは、本物が持つ、職人の手による微細な調整と、1728個のパーツが完璧な調和を奏でる『機械の生命』からは、光年単位で隔たっている。それは、『技術の粋』と『芸術的霊性』の決定的な差だ。」
その時、店に白い手袋をはめた初老の紳士、伊集院が入ってきた。彼は有名な時計コレクターで、本物の超複雑時計も数点所有する。
「おお！ 遂に完成したか、あのキャリバー89の模型！」伊集院は目を輝かせて模型に近づき、ルーペを当てた。「素晴らしい…各表示の連動、ハンマーの動作…教育用として最高の出来だ！」彼は熱心に観察を始めた。「…しかし、このエナメルの質感…本物の深い輝きには及ばないな。歯車の噛み合いの滑らかさも、本物の比ではない。」彼は少し残念そうに、しかし満足げに頷いた。「まあ、本物は決して手が出ない。これでその機構美を『理解』し、『研究』できるだけでも価値はある。」彼は即決で購入した。「真の美は複製不能だと、改めて思い知らされるよ。」
伊集院が模型を「研究資料」として購入していくのを見送り、佐藤が感嘆した。
「…あの模型、相当高価なのに、本物を持つ方が喜んで買うんですね。」
「ああ。」私は頷いた。「彼のような『究極の愛好家』にとって、このレプリカ模型の価値は、『所有欲の代償』ではなく、『到達不可能な頂の芸術を、可能な範囲で理解し、愛でるための窓』なんだろう。『本物の価値』を深く知る者ほど、その不完全な『写し』にも学びと畏敬を見出す。」
店が摘発され、レプリカ市場が縮小する中、ヴィンテージや歴史的な時計関連品のコーナーは静かな輝きを放っていた。その一角に、一枚の古びたパテックフィリップの工房スケッチと、それに付随するマイスター時計師の作業工具一式が置かれていた。1930年代のものと推定され、スケッチにはキャリバー89の原型と思しき複雑機構の構想が走り書きされていた。工具には長年の使用による手垢と微細な傷が刻まれていた。
ある雨の日、一人の痩せた老人がそのスケッチと工具に釘付けになった。彼は震える手で白い手袋をはめ、ルーペでスケッチの一線一線、工具の刃先の摩耗跡を、息を詰めて観察した。
「…これは…」老人の声は涙で詰まっていた。「…師匠…グスタフ・ラウフェンベルガーの…手稿と…愛用の工具だ…。」彼はスケッチの隅の特徴的なサインを指さした。「…私は…彼の最後の弟子の一人だ…。この構想…キャリバー89の黎明期の苦闘が、この線に宿っている…。」彼は工具の柄を握りしめた。「…この傷…師匠が生涯、時計と格闘した証だ…。」
老人は、師匠がキャリバー89の開発に心血を注いだ日々と、その厳しくも慈愛に満ちた指導を語った。
「…値段は？」
私は正直な（そして想像を絶する）価格を伝えた。老人は一瞬、目を見開いたが、すぐに深く深く、幾度も頷いた。
